初期の改訂
15世紀から16世紀にかけて、日本の医師たちは中国医学に対してより独立した見解を持つようになった。田代三喜(1465-1537)は12年間の中国留学の後、「後世医学者」(Gosei-ha)と呼ばれる運動の中心人物となった。この学派は李東源と朱丹渓の教えを広めたが、それは次第に宋からの古い教義に取って代わられた。弟子の一人である曲直瀬道三は、田代の教えを日本の状況に適応させた。彼は自らの観察と経験をもとに内科学書8巻を編纂し、京東に有力な私塾「敬徳院」を開いた。息子の玄沢は症例集『医学天証記』を著し、相当数の新薬処方を開発した。